孫四郎橋

鳥取県日野川周辺の廃土木と交通史

前回は薮津橋についてご説明しました。

その薮津橋から日野川下流に向かって500mちょいの間は、「目も覚めるほど険しい」というので『寝覚狹』などと呼ばれるようになったほどの地勢的難所が続いています。

二代目薮津橋の足もとに横たわっている初代薮津橋の橋脚遺構
初代薮津橋の橋脚遺構

今でこそ山を削り、法面を切って出来た立派な道が通っていこそすれ、過去この地の交通をめぐっては、難所であるが故にそれなりのドラマがありました。

最たるものとしては、天保2年(1831)から現在に至るまで、時代と共に生まれては消えて行った計7基にも上る橋が良い例でしょう。

孫四郎橋の支柱基礎と薮津橋
薮津の崖の支柱基礎

ところで前回結論の出ていなかった、
遺構④「薮津の崖の支柱基礎」
というのがあった事を覚えておいででしょうか?

初代薮津橋の遺構である、という可能性は消えました。
さて残りは…。

今回のお話は、
1.薮津橋と競合して消えて行った伝説の橋「孫四郎橋」を徹底的にご紹介する
2.それを踏まえたうえで薮津の崖の支柱基礎が何なのかを明らかにする
ここまでが目標です。
それじゃはじめようか、ぽんきちくん!
あたしやだ。

もくじ.

第1回 薮津橋

第2回 孫四郎橋 ⇦いまここ

1.孫四郎橋ってそもそも何?    
1-1.孫四郎橋の大雑把な成り立ち
1-2.立役者の一族、舟越家の系譜
1-3.橋にまつわる時系列
2.遺構『支柱基礎』        
2-1.岩田の崖に降りてみよう
2-2.籔津の崖に降りてみよう
3.もういちど文献からアプローチ  
3-1.初代孫四郎橋(天保)
3-2.四代目孫四郎橋(慶応)
4.謎解き             
5.考察              
5-1.橋の形状が水平展開していた
5-2.その他の遺構の成立年代
5-3.幹線の移り変わり
第3回 未定
孫四郎橋の研究

1.孫四郎橋ってそもそも何?

孫四郎橋の研究
『孫四郎橋の研究』より/孫四郎橋設計図

薮津橋を語る時にどうしても避けて通れないのが、江戸時代の後期に渡村の有力者であった舟越孫四郎と、彼の働きかけによって完成した孫四郎橋です。

孫四郎橋とは、岩田の崖の支柱基礎や文献などによりその存在が仄めかされている歴史上の橋であり、起源は江戸時代の後期にまで遡ります。

二代目薮津橋と、孫四郎橋の案内看板の位置を、地理院地図にプロットした説明用画像
薮津橋と孫四郎橋

岩田の崖から少し川下の国道沿いに案内板もあります。

たまたま岩田の崖に隣接して立っていますが、孫四郎橋の架橋地点を断定するような内容ではありません。
念のため引用しておきましょう。

孫四郎橋跡
孫四郎橋の案内看板
孫四郎橋の案内看板

往時、日野川の橋は原始的な板橋で、毎年数度の出水期には、橋が流失して両岸の住民は不便に悩まされていた。

渡村 舟越孫四郎は、この地に着目して郡内より寄付を集め、天保2年(1831)全長20間(約36㍍)、幅7尺5寸(約2.25㍍)の板橋を創建した。

橋脚は東西の橋詰からそれぞれ2間目と、2間半目に両岸に穴を掘って8本を立てた。

その子、孫右衛門また維持につとめ、明治19年(1890)薮津橋が完成するまで6回の架替や修理が行われた。

行く水は
  すめどにごれど諸人の
    世渡りやすき孫四郎橋

天保11年 久住 山県重助

場所はこちら。

1-1.孫四郎橋の大雑把な成り立ち

日野上村宮内の神通橋
日野上村宮内の神通橋

文政から天保にかけて、即ち19世紀初頭の頃日野郡で、日野川に架かる本格的な橋は日野上村宮内の神通橋しかありませんでした。

この橋については、西村橋入澤橋などの呼び方があっただとか弓張月のようなその姿が大変美しい、などといったエピソードが残っています。(日野郡史、1926)
しかし、

写真で確認できる神通橋は平べったい木造方杖橋に見えるのに、何故弓張月に例えられるのか?

という、実は結構重大な謎がサラッと書いてあります。
ちなみに弓張月というからには反り橋、もしくは太鼓橋のような形状を指しているのでしょう。
これについては最後のほうで触れますので。

それでは話を戻して、当時日野川を渡る為に人々はどうしたかというと、橋と呼ぶには余りにも頼りない木橋の上をギシギシ歩いて渡ったり、然も無くば渡し舟を使用せざるを得なかった筈です。

実を言うと日野川には、頑張れば歩いて渡河できる場所が幾つもあります。

ま、そういう蛇の道的なお話はおいといて、いつでも簡単に、そして安全に川を渡る方法なんてそうそう無いでしょ?
今じゃないんだし。
そんなとこに大名とか役人なんかが来ちゃったら、そりゃもう困るよね。

日野川が増水している様子、日野郡日野町小河内堰にて
例:増水した日野川、小河内堰

運悪くそれらの往来時に大水が当たってしまった時など、米子の深浦から船頭さんを10何人も連れてきて、無理矢理舟で渡してしまったそうです。(日野郡史、1926)

パイロットを10人乗せれば、台風の中旅客機が飛ばせるんじゃないか?
的な発想に近いと思うのですが、具体的に10何人がどう協力すれば、増水した川で要人と物資を渡すことが出来たのか、大変気になるところではあります。

そんななか、寝覚狹に恰好の架橋地点がある事を見出した舟越孫四郎は、日野郡の有力者達から協力を得て天保2年(1831)孫四郎橋を完成させました。

その後3回の架け替えと3回の修理を経、明治19年の洪水によって遭えなく流失。
孫四郎橋はその役目を終えました。

現在では、岩田の崖に掘られた支柱基礎がその遺構だと伝えられているっぽい事は、既に述べた通りです。

1-2.立役者の一族

孫四郎橋について調べるのに私が主に使用したのが、『日野郡史(1926)と、『孫四郎橋の研究(1965)です。

ところが、何の予備知識もなく日野郡史から入ってしまうと、どう考えても別人ではないかと思われる孫四郎さんが入れ替わり立ち代わり登場するため、100%混乱してしまう事になります。
…いいか?100%だ。
⇧犠牲者

ですので、舟越家の系譜について『孫四郎橋の研究』をもとにここで補足しておきます。

漆原(しっぱら)から加勢地(かせち)にかけての地域をGoogleEarthから得た俯瞰図にプロットした説明用画像
漆原と加勢地

今回の調査でスポットが当たる舟越家は、江戸時代中期から後期にかけて、漆原(しっぱら)から加勢地(かせち)に分家した舟越家であり、孫四郎を名乗った人物が3名おられます。

孫四郎橋とかかわりの深い方は4名、其々印をつけています。
また、今更ではありますが舟越家の方々を私は偉人として捉えていますので、敬称を省いています。

初代/孫四郎
宝暦11年没
二代/彌七
文化14年没
三代/孫四郎
嘉永元年没
養子
孫四郎橋の設計者で、創建の立役者
後に初代孫四郎を名乗るが混乱を避けるため当サイトでは三代目孫四郎と呼ぶ
また屋号として橋本屋を名乗ったのも彼
四代/孫右衛門
明治18年没(69歳)
孫四郎橋の架け替えや補修など、ほとんどのアフターケアを行った
三代目孫四郎没後、二代目孫四郎を名乗るが本当に訳が解らなくなるので当サイトでは四代目孫右衛門と呼ぶ
五代/金三郎
明治44年没(73歳)
六代/乕次郎
大正11年没(51歳)
四代目孫右衛門が老境にあって孫四郎橋の存続をめぐり郡役所と渡り合う時、若年の乕次郎を用いた
日野郡史編纂時、曽祖父、祖父の業績についてインタビューに答えている
七代/弘一
昭和40年の時点にてご健在
『孫四郎橋の研究』発行時、舟越家御当主
血縁/康寿
明治34年~昭和46年
日本の経済学者、歴史学者
鳥取県日野郡生まれ
1921年 鳥取師範学校卒
1925年 広島高等師範学校卒
岐阜県立大垣高等女学校(岐阜県立大垣北高等学校の前身)教諭
1936年 広島文理科大学西洋史学科卒
1939年 立命館専門学校(立命館大学の前身)教授
1949年 専修大学教授、横浜市立大学教授
1960年 「金沢称名寺寺領の研究」で慶應義塾大学経済学博士
1965年 横浜私立大学定年退官、名誉教授、札幌大学教授、経済学部長
1969年 城西大学教授、明星大学教授
著書
『東南アジア文化圏史』三省堂 1943
『フルダ律院古文書集の古文書学的考察』1953 横浜市立大学紀要
『孫四郎橋の研究』政治経済史学会 1965
『南方文化圏と植民教育』大空社 1998 アジア学叢書
『寂寥 学究・その半生の愛』文芸社 2003
Wikipediaより)
以上、舟越家の系譜について簡単に説明しました。

1-3.橋にまつわる出来事

孫四郎橋の創建から終焉まで、その他現代までの歴史的特記事項を時系列に並べると凡そ以下のとおりです。

孫四郎橋にかかわる歴史的特記事項

これら記録に残っている出来事の中で、「創建⇨架替⇨放棄」に関わる項目が重要である為、赤線にしてあります。
そして更にこの中で、

天保2年(1831):初代孫四郎橋の創建
慶応3年(1867):四代目孫四郎橋に架替

が、以下の論証で必要になりますので、特に書き出しておきます。

2.遺構『支柱基礎』

ここまでは主に、孫四郎橋という橋があったらしい事と、舟越家についての情報を下ごしらえとして列挙してきました。
しかし、孫四郎橋が実在していたことを仄めかしているのは、なにも文献だけと云うわけではありません。

それでは実際に現地を訪れて、物理的な痕跡を見て行きましょう。

2-1.岩田の崖に降りてみよう

鳥取県日野郡日野町岩田の崖にある遺構の位置をGoogleEarthから得た俯瞰図にプロットした説明用画像
岩田の崖の遺構群
一般的に(?)孫四郎橋の遺構があるとされているっぽいのがこちら、岩田の崖です。

川岸に降りて近くから見ると、なるほど確かに人工的な穴が空いています。

ところでここまでご紹介しておいてなんですが、こちら右岸の穴は国道から見えません。
そしてロープや縄梯子など最低限の装備無しで護岸を滑り降りてしまうと道に復帰できなくなりますので、なるべく立ち入らない方が良いでしょう。

ここでは、私が体を張って検分した結果を仮に色分けしたグループごとに紹介しておきます。

グループ

四角錐台形、短辺約30cm、長辺約35cm
円筒形、直径約30cm
円筒形、直径約25cm
円筒形、直径約31cm
四角錐台形…に見える

対岸のについては調査していまへん。

また、比較的見えやすい場所にあるのはここまでで、以下グループの支柱基礎については近年認知されていなかった可能性があります。

グループ

円筒形、直径約45cm
円筒形、直径約45cm

岩田の崖にある支柱基礎の中では最も大型のグループです。
サイズが同程度でしたので同じグループとしましたが、実際の場所には1m程度の落差がある事を付記しておきます。

また、薮というよりは既に植生が木立にまで遷移しており、スケッチした位置関係も一段と大雑把になっています。
大事なところなのに…(後述)

グループ

円筒形、直径約25cm
円筒形、直径約25cm

こちらの支柱基礎はBが未成であるように見えます。

ABの間隔も50cmと離れず隣り合っていますので、同じ橋の下部構造だと考えるのは難しいかもしれません。
それぞれ発見済み、もしくは未発見の支柱基礎とのペアになっている可能性もありますが、今のところ解釈を保留するつもりで1グループとしています。

2-2.薮津の崖に降りてみよう

一般的に知られている岩田の遺構に対してこちらは薮津の崖。

ここにある遺構について言及してある記事なり資料なりは今のところ見たことがありませんので、未研究だと思われます。
冒頭でも述べた通り、今回の記事はこの薮津の遺構が何なのかを明らかにすることを主な目的のひとつとしています。

鳥取県日野郡日野町薮津の崖にある遺構の位置をGoogleEarthから得た俯瞰図にプロットした説明用画像
薮津の崖
孫四郎橋の遺構に説明用の番号を付けた説明用画像
対岸から視点
孫四郎橋の遺構に説明用の番号を付けた説明用画像
上から視点

川上から数えて下段を①~⑤、上段を⑥~⑩とします。

・水面から随分離れていること
・斜め45°の穴があること
・規則的な配置

等の理由から甌穴(ポットホール)であるという可能性を除外…ていうか見た目からして全然違います。
穴のサイズは其々45cm程度です。

また、下図に示すとおり上下段共に最も川下のは不完全な形状ですので、使用に耐えたのは全10穴中8穴であったと考えられます。

鳥取県日野郡日野町薮津の崖にある遺構の位置をGoogleEarthから得た俯瞰図にプロットした説明用画像
穴詳細①~⑤
孫四郎橋の遺構に説明用の番号を付けた説明用画像
穴詳細⑥~⑩
孫四郎橋右岸の遺構から対岸の遺構を望んで位置関係を把握するための説明用画像
対岸の様子

実は対岸の一部露出した岩肌にも同程度の穴がいくつか確認できます。

残念ながら伯備線の敷設に伴い整備された護岸に隠れている部分が多いのではないかと思いながらも、まさか発掘するわけにも行きません。
※していいと言われてもしません

とりあえず、
橋の架かっていた(と思われる)方位
が後々の大ヒントになります。

また、
片岸につき直立した4本の支柱と、斜めの支柱(方杖)4本を含む構造
であったという事。

薮津の崖で実地検分を行った結果、以上2点の情報が手に入りました。
それでは次。

3.もういちど文献からアプローチ

実地検分は以上として、次にもう一度文献に戻って攻略を進めます。

改めてになりますが孫四郎橋について知ろうとするうえで最も有用なのが、昭和40年に舟越康寿によって書かれた、そのものズバリ『孫四郎橋の研究』です。
孫四郎橋と舟越家の概要をまとめる為、1-2.立役者の一族~でも参考にしました。

これは舟越家の血縁であり、また自身経済学者としても名の知れた舟越康寿が、ちょっと自分ちにあった書類をまとめてみた、という感じのたとえて言うなら
田舎の草野球にプロ野球選手が参加して来た⚾
というような、ズルいほどに内容の充実した研究書です。
おかげで助かっているとは言うものの…
田舎の草リーガーとしては立つ瀬がありませんよね。
ケタケタwww

3-1.初代孫四郎橋(天保)

「孫四郎橋の研究」には、初代孫四郎橋(天保)の図面とその用材が記載されていますので、一部換算と整列を加えてここに引用します。

孫四郎橋の研究
孫四郎橋の研究(舟越康寿 1965)より

橋の規模様式については、天保2年卯正月日願主渡り村孫四郎と自著した橋の設計図が残存していて、全容を明らかにすることができる。

それによると、全体の長さ廿間(36.36m)、巾7尺5寸(2.27m)の板橋で、中央が高くなった反り橋の様式であり、中央の最も高い所は水面から2丈(6.06m)の高さを以ていた。

橋脚は東西の橋詰からそれぞれ2間(3.64m)目と2間半(4.55m)目にすべて8本を立て、中央12間(21.82m)の間には柱は立っていない。
その8本の橋脚は岩石に穴を掘って立てた。
その用材や石穴のことは、文政13年8月橋用木併諸入用覚帳に

一、 大ねだ(杉) 12本
12間 L21.82m
廻り 4尺 φ0.39m
一、 根た(栗) 8本
4間 L7.27m
廻り 3尺5寸 φ0.34m
一、 柱(栗) 4本×2
1丈 L3.03m
廻り 4尺5寸  φ0.43m
一、 本柱石穴 8つ
深さ 2尺 D0.61m
廻り 4尺5寸 φ0.43m
~以下略

ちょちょ…、ちょっとまってください!

えーと橋の長さが36m?
そのうち22mには柱が立っていなくて…
あーもー、ワケわかんなくなってきたー。

だよね~w
この後でいっぺんに謎解きをする前に、まずこの初代孫四郎橋だけでもやっつけてしまおう。

孫四郎橋の研究に記載されている初代孫四郎橋(天保)の用材リストから、それどころか図面まで添付されていますので、少なくとも
片岸につき4本の直立する柱で支える構造であった
ことがわかります。

この事から、薮津の崖の支柱基礎は候補から除外されます。
ここまではOK?

ぽ〕うんOK、だって薮津の崖には使える穴が片岸8個あいてたもんね!
斜め向きのも含めて。

そう、そこで現在見つかっている岩田の崖の支柱基礎のどれかだろう、となる訳ですが…

ぽ〕ふむふむ…

上から眺めて考えていてもこれ以上インスピレーションが湧きそうにありません。
そこで、もう一度孫四郎橋の設計図に戻ってみます。

こちらは地理院地図から得た河道断面ですが、そこに設計図の要素をプロットしてみました。

注目していただきたいのは、ピンクの線で示した梁というか根太というか筋交いというか、とにかくそれ系の荷重を分散させる何かです。
この何かは岩壁に基礎を置いているのではなくて、支柱に組み付けてありますのでいグループのような丁字型の配置では具合が悪いわけです。

また、石穴及び栗柱の直径が4尺5寸(φ43cm)と記されていますので、これらの特徴がいちいち合致するのは今のところろグループのみ。

まとめましょう。

初代孫四郎橋は、岩田の崖にある遺構群のうちグループの位置に架かっていたと考えられる

これが、今回明らかにする一つめの結論です。

ふーん…。

でも今回見つけたろグループの支柱基礎は二穴しかありませんでしたけど…
孫四郎橋の遺構候補地に未発見である遺構の予想地点をプロットした模式図

さぁそこだ!
もしこの仮説が正しいのなら、ろグループを構成する発見済みの支柱基礎から見て南西3メートル辺りに、未発見の支柱基礎が1対埋まっている筈です。

予想された地点に遺構が発見されたとき、この仮説はもう少し信ぴょう性を持つでしょう。
因みに他のグループの支柱基礎については、今のところ推測の材料がありませんので不明とします。

3-2.四代目孫四郎橋(慶応)

いよいよ大詰めです。
1-3.橋にまつわる時系列のところで述べた通り、孫四郎橋は3度の架け替えが行われています。
改めて抜粋するとこんな感じ。

天保2年(1831):創建
弘化3年(1846):架替
嘉永7年(1854):架替
慶応3年(1867):架替

今更ではありますが、この慶応3年に架け替えられた橋を四代目孫四郎橋(慶応)と呼称ます。

ぽ〕んー、出典を明らかにしてもらえませんか?

所〕こないだ俺が決めた。

ぽ〕(#^ω^)ビキビキ…

所〕いやほんと冗談じゃなくてさ、大雑把に「孫四郎橋」って呼んでいる限り、ずーっと混乱しちゃうんだよ。
例えていうなら初代とジャックをまとめて「ウルトラマン」と言ってしま…

ぽ〕余計わからなくなるからやめてください。

閑話休題
ここで重要なのが、先ほど検証した初代孫四郎橋(天保)と以下で引用する四代目孫四郎橋(慶応)を見比べると、明らかに別の橋であることがわかる点です。

それでは比べてみましょう。
欄干や製材に用いる材木/代金などの情報を省いて、孫四郎橋の研究より再び引用します。

4.慶応の架替

慶応3年の架替は文久2年から5年目に当り、文久の一時的な修理では橋が危険になったものとみえ、本格的な架替であった。
孫四郎(この頃から孫右衛門は孫四郎を専称する)は慶応2年11月に孫四郎橋諸入用積書上帳を大庄屋に提出し、架替の規模と費用を具申し、当局の援助を乞うた。

その案文に曰く、
慶応2年孫四郎橋諸入用積書上帳寅11月
東は口日野郡渡村
西は奥日野郡下黒坂村

一、渡し廿5間(45.45m)横7尺5寸(2.3m)両方へ鳥居2組宛立大根太4本并〆大根太3本并1寸2歩懸之栗木板5寸釘に而打付欄干手摺を付仕立可申積に奉存候
孫四郎橋積長

一、 柱(栗) 8本
1丈8尺 L5.45m
廻り 5尺 φ0.48m
一、 大根太(杉) 8本
8間 L14.54m
廻り 5尺 φ0.48m
一、 大根太(杉) 18本
4間 L7.27m
廻り 3尺 φ0.29m
一、 大根た(杉)
中つぎ
4本
4間 L7.27m
廻り 2尺5寸 φ0.24m
一、 貫(栗) 4本
7尺5寸  L2.27m
廻り 4尺 φ0.39m
一、 かさき(栗) 4本
7尺5寸 L2.27m
廻り 4尺 φ0.39m
一、 まくら木(杉) 2本
7尺5寸 L2.27m
廻り 3尺 φ0.29m
一、 根たつき(栗) 8本
4間 L7.27m
廻り 3尺5寸 φ0.34m

初代(天保)に比べて用材が圧倒的に多いので、橋脚にあたる材がどれなのかについては、もしかすると意見が分かれるかもしれません。

取り敢えず私の見立てでは、上記アンダーラインの部分が重要と思われ…

1.東は渡村、西は下黒坂村
2.45.45mの長さであった
3.片岸につき長5.45mの柱4本、長14.54mの大根太4本(それぞれφ48cm)が使用されていた

以上3つのヒントを手に入れて、謎解きに進みたいと思います。

4.謎解き

これまでに出てきた材料を組み合わせるだけの、あとは単なる作業です。
それではぽんきちくん、関係者全員をここに集めてくれたまえ。

4-1.方角

「孫四郎橋の研究」記載、四代目孫四郎橋(慶応)の案文に、
東は口日野郡渡村
西は奥日野郡下黒坂村
と記載されていました。

安政期の絵図によると、それぞれ大雑把に、
下黒坂村は地図上側(日野川左岸)
渡村  は地図下側(日野川右岸)
です。

この事を踏まえて岩田の崖、薮津の崖それぞれの地形を俯瞰すると、岩田の崖では左岸が西向きでは無い事がわかります。

加えて岩田の崖の左岸は根妻という字であり、そもそも下黒坂村ではない筈です。
つまり、

下黒坂村が西に来るのは薮津の崖、または少なくともその周辺である

という事になります。

もうこれだけで十分な気もしますが、根拠は多い方がいいでしょう。
次、遺構の特徴と用材を比較してダメ押しとします。

4-2.遺構の特徴と用材の符合

もういちど薮津の崖にある支柱基礎を見てみましょう。
その特徴は、

使用できるφ45cm程度の穴が片岸につき4個×2列

因みに下段の列は断面方向で斜め45°でした。
そして「孫四郎橋の研究」に記載された四代目孫四郎橋(慶応)の用材リストで、

片岸につき長5.45mの柱4本、長14.54mの大根太4本(それぞれφ48cm)

が使用されていた事を覚えておいででしょうか。

以上の事を踏まえて、地理院地図から得た河道断面に柱と根太をプロットしてみるとこうなります。

それぞれ橋の入り口が高くなっているのは、後程改めて触れる神通橋の形状を参考にしました。

それでは結論その2

薮津の崖にある支柱基礎は、 四代目孫四郎橋(慶応)の遺構であると考えられる
Q.E.D.
以上、証明を終了しま(ゴンッ)
うっ…ドサッ
ポイッ⌒🔨
腹立つからやめてください。

5.考察

ここからはおまけです。

初代、および四代目の孫四郎橋について知る事によって、芋蔓式にわかってくることが幾つかあります。
以下順に説明しますので、あと少しだけお付き合いください。

5-1.橋の形状が水平展開していた

日野上村宮内の神通橋
神通橋/日南町宮内

ここまでのところで、実はまだ回収していない伏線がある事に気づいておられる方はいらっしゃいますでしょうか。

それは、最初の方ででチラっと出てきた、

写真で確認できる神通橋は平べったい木造方杖橋に見えるのに、何故弓張月に例えられるのか?

という謎についてだったのですが単に、

孫四郎橋と同様、 当初反り橋であったものが木造方杖橋へと架け替えられた

事が理由であると考えられます。
橋梁工事のトレンドが短期間のうちに伝播しているんですな。
ちなみに神通橋と四代目孫四郎橋のうち、どちらが先であったのかはわかりません。

5-2.その他の遺構の成立年代

日野川にあった廃橋の遺構をGoogleEarthから得た俯瞰図にプロットした説明用画像
日野川流域各地に見られる支柱基礎の遺構群

実はこれまで紹介した橋以外にも、支柱基礎の遺構が複数現存しています。
私が知っているだけでも2ヶ所、そしておそらくその他にも山ほどある事でしょう。

めぼしい文献で詳細な記述を見つけることができませんので、もう名前を知るすべとてありません。
ところが実は、今回の話を踏まえる事によってこれらの成立年代をけっこう絞り込むことが出来るのです。

まず初代孫四郎橋が成立する以前、本格的な橋は神通橋以外に存在していなかった事が史実としてわかっています。

よって孫四郎橋と同様、

天保2年より昔のものではない

次に、日野郡では明治18年に國道及び懸道が完成しました。
それに伴って、

神通橋  ⇨ 入澤橋
孫四郎橋 ⇨ 薮津橋

と架け替えが行われたわけですが、これら新橋はいずれも鉄筋コンクリートの橋脚を備えていました。

というわけで、コンクリート及びそれを使用した土木工事の普及を理由として、木橋の遺構であるこれらの支柱基礎が成立した年代の下限を明治18ね

ちょっとまってください!

コンクリートを使った橋梁建設が始まったことと、木橋の終焉ってイコールなんですか?
東日本における木造方杖橋の構造形態について(2002)
にも橋梁工事の殆どは未だ木造だったって書いてあるんですけど。

所〕ちっ…

ぽ〕なによ!その舌打ち(怒)

明治18年前後を境とし、段階的に切り替わって行ったと考えられる

所〕これでいいんだろ? ペッ(最低)

5-3.幹線の移り変わり

突然ですが、人類というものは一般的に川無しで生きるのは凄く大変だと思います。

日野郡の人々も例にもれず、日野川およびその支流からつかず離れず集落を作って生活を維持して来ました。
当然それらが行き来をする場合も、川に沿って移動すると都合の良い場合が多いため、川筋道というものが発展します。

しかしどこの川でもそうなのでしょうが、ある程度以上の道を作るのが難しい地形というのはあるもので、寝覚狭の左岸もそれにあたります。
ここに道を通すぐらいなら山を越えた方がマシ、と思わせるプレッシャーをあの岸壁からは感じるぜ…いやマジで。

さて、今回ゴチャゴチャと考えてきた孫四郎橋なのですが、初代と四代目では架橋地点が違うという事はもうしつこいほどに説明したとおりです。

ところがこの絶対に通りたくない寝覚狭の左岸と、孫四郎橋を組み合わせて考えると不思議な絵が見えてくるもので…

孫四郎橋が岩田の崖に架かっていた場合に想定されるトラフィックを地理院地図に追加した説明用画像
初代使用を想定する幹線

初代孫四郎橋が岩田の崖にかかっていた頃の交通は主にこうなっていた筈です。

これは津地を通る富田街道があった名残ではないかと思うのですが、江戸末期までその道が使用されていたのかどうか私は知りません。
誰か教えて!(`・ω・´)キリッ

孫四郎橋が薮津の崖に架かっていた場合に想定されるトラフィックを地理院地図に追加した説明用画像
四代目使用を想定する幹線

で四代目孫四郎橋成立以降、昭和の終わりに至るまで薮津の地に橋が架かっているパターンがこちら。

交通のトレンドが完全にひっくり返っているのがお分かりいただけるでしょうか。
正直なところこれが何を意味するのかよくわかりませんが、まぁ今後日野川沿いの古道について研究する変わった人がいらっしゃいましたら、何らかの足しにしてください。
それではさようなら。

Zzz(*´~`*)スヤスヤ………ハッ!

おつかれさまでした💛
大山氏族隆盛のくだりなんか手に汗握る内容でしたねっ!
⇧つまり聞いてなかった

えーっと次は…、未完の五代目孫四郎橋でしたっけ?
いつになるかわかんないけど、まったねー!

ご来場ありがとうございました。
もしよろしければ…

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