米子市日野川以西
米子市久米には2ヶ所にサイノカミさんがありました。
ひとつは米子城入り口にあったものですが、現在は山陰歴史館に収蔵されており平時見ることが出来ません。
もうひとつは今も飯山登り口にあります。
飯山登り口の石祠
目印
飯山登り口
剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓
対象
左端の石祠
参考
塞神考 附19
石に刻まれた祈り2 No.8
依り代について.
飯山、9号線側からの登り口付近に剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓などを含む石造物群があります。
左端にある石の祠がサイノカミです。
妻神の古祠が古絵図にあったと出典にあり。
また、飯山と湊山の境をサイノタワと呼んだといった昭和63年の聞取り調査結果などが、これも出典に記載されています。
サイノカミの手がかりではありませんが、登り口に立ててある看板の由来書きがわかりやすくておもしろいので、ここに引用させていただきます。
柳生奮戦の地と飯山城跡
約500年前に築かれた伯耆、出雲の国境の重要なとりでで、中世には、山名、尼子、毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。 山頂には、南北約85㍍、東西約35㍍の曲輪が古い二段の石垣で築きあげられている。
湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東のとりでとなった。
慶長8年(1603年)11月、家老横田内膳村詮が、君主中村一忠に暗殺されると、横田方が反旗をひるがえし、飯山にたてこもって激しい戦いが起こった。
これが、世にいう「米子城騒動」、「中村騒動」である。
このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて中村方を多数討取ったという武勇伝は有名である。
米子城の双体道祖神
山陰歴史館
双体道祖神
石に刻まれた祈り2 No.07
依り代について.
山陰歴史館に収蔵されています。
冒頭でも述べましたが、お目当ての依り代は常設品ではなく閉架にあるそうでふだん目にすることは出来ません。