米子市日野川以西
米子市陰田町には三つのサイノカミさんがあります。
※サイノキ多め
ひとつは口陰田、日御碕神社にある椿。
こちら令和4年の時点で藁馬の行事が継続しているたいへんレアなサイノカミさんです。
そしてもうひとつは大谷、廣田神社のウラジロガシ。
最後に奥陰田、犬田神社の…?
一般的には椿だか楓だかのサイノキがあるとされていますが、少々考察の余地がありますので後述します。
それでは見ていきましょう。
口陰田 日御碕神社の椿
日御碕神社
拝殿向かって4時方向の椿
石に刻まれた祈り2 No.61
えーと椿はどれかいな…、などと探すまでもなく木の根元に如何にも怪しい積み石。
枝には藁馬がぶら下がっていますので一目瞭然。
これまで何度も訪れていますが、藁馬の無かった事がありません。
別所稲荷神社の藁馬は令和2年末を最後に休止中ですので、令和4年末現在、現役で藁馬行事をやっている米子市内(結界都市淀江を除く)で最後のサイノカミである筈です。
あと弘法大師堂が近くにありますので、そちらにもぜひ手を合わせておきましょう!
村社 日御碕神社
米子市大字陰田字小天竺鎭座
天照大御神、須佐之男命、天忍穂耳尊、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、市杵島比賣命、多岐都比賣、速玉男命、事解男命
創立年月不詳、往古出雲國神門宇龍浦日御碕神社の御分霊を勸請せるものなりと云ふ、合祭熊野神社は往古よりの攝社なりしを明治元年神社改正の際合祀せらる、明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
十月一日
本殿、幣殿、拜殿、随神門
四百四十四坪
七十五戶
大谷 廣田神社のウラジロガシ
廣田神社
本殿右後ろのウラジロガシ
石に刻まれた祈り2 No.10
少なくとも訪問した21、22年ともに藁束ひとつ落ちていませんでしたし、いつまでどのような行事が行われていたなどの情報も今のところ手元にありません。
サイノカミについての情報が含まれているわけではありませんが、保護期間満了の昭和10年版 鳥取県神社誌(1935)から、念のため社の詳細を引用します。
米子市大字西大谷字西ノ宮鎮座
天照大御神、蛭子神、事代主神
創立年月不詳、往古より廣田大明神と稱せしを、明治元年神社改正の際廣田神社と改めらる、昭和三年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
奥陰田 犬田神社の幸神
奥陰田部落のほんとうに奥のほう、大池の横に犬田神社があります。
明治政府による神社改正前は山王大明神と呼ばれていました。
そしていきなり話が逸れて申し訳ない。
米子バイパスの開発に伴って20世紀末ごろ、奥陰田遺跡群の発掘調査が行われたのですが…
犬田神社は、その中で比較的大きな集落であった宮ノ谷遺跡の場所にあり、飛鳥~奈良時代の土馬などが出土しています。
取り敢えず調査報告書が面白いのでリンクを張っておきます。
あと更に話が逸れますが、犬田というのは江戸時代に陰田と呼ばれるようになる(伯書誌)まで、五ケ村を庄としていた古い呼び名だそうです。
へぇ~。
会見郡のうち奥陰田、口陰田、西大谷、目角、大谷の五ケ村を犬田庄と云う(元禄郷帳)
なるほど~。
犬田神社
椿
もしくは楓
もしくは…
塞神考 No.392
石に刻まれた祈り2 No.11
鳥取県神社誌(S10)
出典により楓、椿と意見が分かれています。
いずれも藁馬行事があったとの聞き取り結果をもとにしていますので平行線…
そもそも寛政八年の神社改帳に奥陰田村 幸神 無社 山王社地に座すとあるそうで、元々はサイノキではない依り代があったのではないか?
という疑いが湧き上がってくるわけです。
少々手詰まりの感がありますので、以下保護期間満了の昭和10年版 鳥取県神社誌から、社の詳細を見てみましょう。
米子市大字陰田字宮ノ谷鎭座
大巳貴命、國常立尊、天忍穂耳尊、木花咲屋姫命、武内宿禰命、道眞、稲背脛命
創立年月不詳、往古より山王大明神と稱し崇敬せり、以前は六十四石八斗九升の社領ありしと云ふ、其の頃神事式執行神饌供物を洗ふ井筒に、御水井土、洗度井土、研井土の三所ありて今に存す、御旅所今は宮田と唱へ草原あり、其の後社領減少慶長六年極月二十六日中村泊耆守より神主居屋敷手作分として三石を附せられ、慶長十六年寅十月十八日米子城主加藤氏及び元和四年九月十九日藩主池田氏よりも中村氏と同じく取扱はれ、寛文七年六月二十六日社領一石八斗九升九合を先規により寄附せらる
明治維新神社改正の際犬田神社と改稱せらる、往古よりの攝社たりし米子市大字陰田字北井垣鎭座衣那荒神社、同市大字同字南谷鎭座高良神社、同市大字同字東天神谷鎭座北野神社、同市大字同字狸谷鎭座鷺神社を此の時合祀す。
十月十九日
本殿、幣殿、拜殿、随神門
六百六十二坪
六十五戶
ご神徳に道祖神的側面があるっていうふうに目久美神社のとこで触れました。
ここからは推測なんですけど、明治時代の神社改正で合祀されることになった衣那荒神社でもともとお祀りされていたのが稲背脛命で、そしてそれがサイノカミだったんじゃないでしょうか。
…だって名前似てるし。