第7章「交通編」第2節の1 出雲風土記東南道
気が向いたときに、日野郡史の気が向いた章を桃尻語訳してみる、さっぱり誰が得をするのかわからないシリーズ。
今回は出雲国風土記東南道のところです。
出雲国風土記と言えば今でも研究が盛んな国学の人気テーマであり、まだまだ解明されていない部分が山ほどあります。
当然伯耆国にカスる部分だけ見ても私的にはさっぱりワケが分からないのですが…
そんな出雲国風土記を、郷土を代表するインテリ集団であった日野郡史編纂委員会が、いったいどのような切り口で解釈を行い地誌に組み込んだのか?
例によってGoogleマップをゴリゴリに活用しながらなるべくわかりやすく追っていく事が今回の主要テーマとなります。
ですので、あくまで古代史研究の最前線をご紹介するものではありません。
また日野郡史では、注釈書である出雲風土記抄を使用している関係からか出雲風土記と表記されています。
文脈によっては原文ママで表記していますので、そこらへんについてもご留意ください。
それではさっそく始めよう、ぽんきちくん。
いいね?
ちゃんと桃尻調で頼むよ。
えー、また~?
⇧クセになってきた
もくじ.
序(◀前回)
…
第二節 道路
富田街道
二、出雲街道と御茶屋
三、孫四郎橋
四、御番所と木戸締
五、一般道路
第四節 宿驛及宿馬
第五節 旅館及茶屋
第六節 往來手形
第七節 御觸 …
第一節 總叙
ス~ハ~(切り替え中)
…
…
えーと、日野郡の交通が昔どんな感じだったのかを調べるときにね、参考になるような文献っていうのがあんまし無いんだけど、
出雲国風土記の立場から見た東南道だとか…
樂々福神社由緒記載の道順
長谷部信連が日野へ流された時のエピソード
陰徳太平記に書いてある戦時中の往来
役場の位置から考えられる年貢の運搬経路
早馬と伝馬の往来
古地図に載ってる道
伯耆民談記と、伯耆民諺記に書いてある駅路
一里塚、一里松、道しるべ等々
(けっこうあるじゃん…)
こーいうのを参考にしながら、まず古道について調べんのね?
で、往来の移り変わりなんかに触れたりしながら、江戸時代の大名道路と一般道路について書いてこうと思うの。
あと舟についてなんだけど…
所々に渡しがあるぐらいだし、その他駅伝、馬次、助郷、関所、番所なんかはざっくり触れるぐらいにしとくから、そこらへんあんま期待しないでよね。
第二節 道路
一、出雲風土記東南道
出雲国風土記仁多郡のくだりにね。
阿毘縁に通じる古道があるって書いてあるのよ。
吉備から伯耆を通って出雲に入る道の事なんだけど…このルートって阿毘縁に関所があって、道ばたなんかに古墳がすんごいあんの。
ここ大事なとこで、特に多いのは石見、日野上、山上の3ヶ所。
ところであたしさ。
東南道の駅伝についてはちょっとばっかし持論があるんだけど聞いてくんない?
少しだけ補足しましょう。
阿毘縁に関があった事をはじめ、石見、日野上、山上に古墳が多く見られるとの記述があり、これは以下論考を進めていくうえでのフラグとなっています。
参考までに、GoogleEarthに境界線データをインポートし、少し手を加えたものを添付しておきます。
以降この地図に情報を追加しながら、日野郡史編纂委員がいったいどのような持論を展開しているのかを追いかけて行きます。
東南道付驛傳考
東南道
郡家より去ること二十三里一百八十二歩郡の東南の堺仁多郡比比理の村に至る。 又東南一十六里二百四十六歩仁多の郡家に至りて分かれて二道となる。 其一道は東三十八里一百二十一歩。註仁多郡の條には卅五里一百五十歩とあり。 今の十五町の差あり仁多郡の條の分、實際に近きが如し。 國の東南の堺に至る。 伯耆國日野ノ郡に通ふ又一道は南三十八里一百二十一歩備後國堺、遊記に至る。
出雲国風土記の東南道についてはもう沿革のとこで喋ったよね?
これって奈良時代以前からあった陰陽交通の要だったんだけど、実は更にもっとずっと昔から
大陸 ⇨ 隠岐 ⇨ 出雲 ⇨ 吉備の国
をつなぐ直通ルートだったみたいなのよ。
出雲国府からスタートするこの国道って、
出雲国府 ⇨ 大原郡 ⇨ 郡界辛谷村 ⇨ 仁多郡 ⇨ 比比理 ⇨ 亀嵩の郡家 ⇨ 伯耆国
って感じの流れなんだけど、
(上記紫文参照、省略)
このうち仁多郡より先のところ、
出雲国府 ⇨ 大原郡 ⇨ 郡界辛谷村 ⇨ 仁多郡 ⇨ 比比理 ⇨ 亀嵩の郡家 ⇨ 伯耆国
については、なんか一考の余地があるんだよね。
改めて補足します。
出雲国府跡というのは現在の松江市内にあり、昭和46年、国の史跡に指定されています。
ここから仁多の郡家に至るまでの道のりはさて置き、仁多郡からどのように進んで伯耆の国へ入ったのか、というのが日野郡の交通史に直接かかわる問題ですので研究テーマとして取り上げたようです。
あと細かいようですが、東南道は大原から仁多へのルートであって、(?)の部分は正東道(まひがしのみち)です。
一般に考へらるゝは前者にして、後者は實地を見且つ種々各方面より考察したる上にて、此道によりしならんと首肯せらるゝものなりとす。荷田春滿出雲風土記考に「今俗にトナミタワ通と云とあるも此道なり。内山眞龍の風土記觧にはトナミノタニ通りと稱し、竹崎道をもあげて、此二道のうちなるべしといへり。
で、亀嵩村ってさ。
だいたい東南に向けて道が2本伸びてんのはまぁ地図見ればわかるよね。
ひとつ目は、
Ⓐ 右折 ⇨ 小峠越え ⇨ 斐伊川上流 ⇨ 竹崎 ⇨ 船通山北麓の急坂 ⇨ 阿毘縁
これが今の本道ね?
で、次ふたつ目がこれ。
Ⓑ 左折 ⇨ 比田村 ⇨ 御墓山の麓 ⇨ 阿毘縁
出雲風土記東南道って、一般的にはルートⒶってことになってんの。
でも実際現地に行ってみたりして思ったんだけど、なんかルートⒷだって考えるとしっくりくるんだよね。
荷田春満の出雲風土記考に「今俗にトナミタワ通と云」って書いてあるのもこのルートⒷのこと。
内山真龍の風土記解では「トナミノタニ通」っていう呼び方だけど、ここではⒶⒷのうちどっちかじゃないかって立場をとってるみたい。
今更ではありますが、これらのルートは発掘などによって古道であるとわかっているものばかりではありません。
トンネルを通したり山を崩したりしない限り、今も昔も無難な場所に道ができるであろうという考えに則り、現在の交通条件からルートを生成しています。
ちなみにルートⒷ、御墓山の峠道はこんな感じです。
勾配も大きく、山道だった頃はさぞ大変だっただろうなぁとは感じましたが、仮にルートⒶであっても峠は通りますので、山道に関しては五十歩百歩といったところでしょうか。
主要道路としての優劣がはっきりしている現在、流石にルートⒶの方が通りやすいとは感じましたが。
また、日野郡史の解釈だけではいくら何でもルートを絞り込むのが難しいため、
日本古代史研究とGIS(2006.今津勝紀)
出雲国風土記に載る交通路の解読(2019.吉田薫)
を参考にさせていただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。
其々PDFですので、開く際には通信環境にご注意ください。
では次、ようやく日野郡に入ります。
今考察の標準を示せば凡左の如し。
一、 | 古墳群落地點を目標とすること。 |
二、 | 由緒ある福神及傳説地をも顧慮したること。 |
三、 | 和名抄日野六鄕の位置を重視したること。 |
四、 | 可成近距離のところをとりしこと。 |
五、 | 深谷峽間(殊に狼の出没するを恐る)を避けたること。 |
六、 | 平坦なる小平地を流るゝ川に沿へる自然の利用。 |
七、 | 檢難なる土地をさけたること。 |
八、 | 見はらしよき山々通過を認めたること。 |
どんどん進んで次伯耆の国いくよ!
日野郡石見村の郡役所に着くまでの道のりについて考察してみる。
そもそもの話、ポツリポツリとしか家が無くて、しかも狼まで出るような千年以上昔の話しようって時にだよ?
江戸時代になっても狼の被害があったとか書いてあるし…
家とか道とかバンバン作っちゃう現代(注、大正時代)を基準にして考えちゃダメだってことはマジで断っておきたい。
わりと最近、明治18年の事なんだけど、ほら日野川沿いにいい道出来たじゃん?
それまでなんてさ、今の子には絶対わかんないと思うんだけど、日野川に橋2つしか無かったんだよ?
それも十里ちょっとの間に。
なんかもう、どんだけ昔だよって感じでさ。
これってよっぽど頭切り替えてかかんなきゃって事だよね。
で、ここから…
① | 古墳がたくさんある所を目標にする |
② | 由緒のはっきりした福神や伝説のある土地も顧慮する |
③ | 和名類聚抄日野六鄕の位置を重視する |
④ | 可能な限り最短距離を通る |
⑤ | 深谷峽間を避ける だって狼怖いし… |
⑥ | 平地を流れる川に沿う |
⑦ | あたりまえだけど険しい地形は避ける |
⑧ | 見はらしのいい山を目印にできる |
こんな感じの点に注意して、現地も見たりしながら考察をまとめてみるとこうなる。
(`・ω・´)フンスッ!
仁多郡役所 ⇨ 亀嵩本部落 ⇨ ヒラ坂越え ⇨ 西比田 ⇨ お墓山巡り ⇨ 阿志毘縁の番所 ⇨ 阿毘縁村の大菅 ⇨ 下阿毘縁 ⇨ 阿毘縁峠 ⇨ 山上村大字茶屋の大内谷 ⇨ 大字福万来の葉侶 ⇨ 野呂山越え ⇨ 後谷 ⇨ 日野川沿岸霞 ⇨ 霞の番所 ⇨ 田ノ原古墳群落 ⇨ 田ノ原越え ⇨ 石見村の鍛冶屋 ⇨ 大倉巡り ⇨ 河合 ⇨ 銀山 ⇨ 是次 ⇨ 郡家
ちなみに大倉山は出雲の青垣山と連絡を取るための狼煙場だったんじゃないかな。
母里の青垣山から大倉山って良く見えるから、なんかあったら狼煙を上げたりして軍団と役場が連絡を取るのにピッタリなんだよね。
古墳群落地點を目標とすること
という先述のフラグを見事に回収していますね。
それにしてもこの心得①~⑨!
パラメータをいくつか与えて、無数の選択肢の中から良さげなルートを提案する…という、AIの得意そうな仕事を人力で。
有難いことに、今は充分な交通網が整備されていて、それこそ大災害でもない限り行来に困る事などありません。
反面、もしもここに橋が無かったら?
もしも近代土木技術による交通網が整備されていなかったら?
あそこまで行くのにどう進むのが最もマシだろう?
このような想像を働かせる必要がない程に幸せな時代です、本当に。
そんななか古道、広くは古代史研究をする場合、まさに日野郡史の述べている通り、
狼の出るような千年前の話をしているのだ
道や家がバンバンできるような現代の感覚で考えてはならない
のです。
補足が長くて申し訳ありませんがもうひとつだけ!
こないだまで日野川に橋が二つしかなかった
のくだりについて。
云わずと知れた入澤橋と孫四郎橋の事です。
近代土木による恩恵を受けていなかった、具体的にはまだ木造方杖橋が最高の土木技術であった時代をリアルに体験していたギリギリの世代である明治、大正期のインテリ集団が、科学的なプロセスを経て直感的に導き出した仮説。
日野郡史が単なる資料に留まらないと私が考える所以のひとつです。
東南道の北を通る本道みたいなのもあったんじゃないかな。
天萬の関 ⇨ 二部村 ⇨ 津地峠 ⇨ 藤の渡し ⇨ 奥渡 ⇨ 真純 ⇨ 高尾 ⇨ 金持 ⇨ 四十曲峠越え
これっていわゆる富田街道のことで、まぁ尼子氏もこの道を辿って往復してたんだろうな~、なんて思ったりするわけ。
そして、この二本の道をカタカナの「キ」の字型にぶった切る川筋線があって、日野⇔武庫の二村をつないでいたなんて事は今更考えるまでもないよね。
駅伝の事にも触れとこ。
実は文書とかが残ってないから、ここでどうのこうの言える状況じゃないんだけど。
もともと日野郡の事なんて中央(管制)からしたらド田舎で注目度低いんだろうし、もうアレだ。
なんか見捨てられちゃってるよね…(´;ω;`)ブワワッ
ヒノ川の流域で、
船通山があって、
国内でブッチギリの良い鉄が出て、
古くからの大山氏族盤踞地で、
出雲民族が活躍してた舞台
こんだけ条件が揃っていながら、平安時代になっても式内の神社が無くて駅伝も整備されてないとかマジで考えられないので、駅伝が設置されるパターンや遺跡、地勢なんかから勝手に考えてみる。
東南道
下阿毘縁の関福万来
日野六郷の内葉侶
霞の関
中石見の郡家
こんなかんじ?
そんでその他、
中部横断線(富田街道)
三部(野上)
渡(日野)
金持(武庫)
縦断線(川筋道)
多里、宮内、霞、黒坂、渡、武庫、溝口
辺りだったってことにしとこう、もう。
ふぃ~、ちょ…ちょっとストップ💦
休憩!
はい、お疲れさまでした。
改めてお断りしておきますが、今回のタイトルが出雲風土記東南道となっているのは、なにも出雲国風土記を読み解こうなどという大それた意図があるわけでは無く、日野郡史が出雲国風土記を引き合いに出して古道についての考察を行った部分を取り上げたまでの事です。
ですので、古代史についての認識が正しいとか正しくないとかいった感じの批評はご勘弁ください。
その他、言いたいことは途中でだいたい喋りましたので、今回はこの辺でお終いにいたします。
次回は川筋道と富田街道あたりまで進んでみようかな~と思っています。
それではさようなら。