鳥取県日野郡江府町の中心地、江尾には橋側歩道橋の付帯した良さげな橋が架かっています。
久連橋といいます。
実はこの橋の上下(かみしも)に、怪しい土木構造物の残骸がすっ転がっているのですが…
それほど気にする人など居ないでしょうね。
うちはこういった、誰が得をするのかさっぱりわからないような重箱の隅のおかずが大好きなサイトですので、まぁ当然気になる訳です。
俯瞰するとこんな感じ。
そう、なんと2ヶ所もあるのです!
(0゚・∀・)ツヤツヤ
仮に上流にある方を遺構群①、下流にある方を遺構群②とし、とりあえず現状を整理したうえで文献に当たってみる流れで行きたいと思います。
最終的には…
A. | 年表をバシッと作成する |
B. | それぞれの遺構がいつの年代のものなのか明らかにする |
ところまでを目標にしたいと思います。
それでは、薮津橋や孫四郎橋などと違って謎解き要素のほとんど無い、ただ調べるだけで事足りる久連橋の橋脚遺構。
調査してみようじゃないか、ぽんきちくん。
もくじ
遺構群① ▽遺構群② ▽
江府町史 ▽
謎解き ▽
遺構群①
ちなみに上記以外にもいろいろと落ちています。
小さな欠片から基礎のようなものまで種々雑多ではありますが、まず遺構群①に属すると考えてよいでしょう。
わかりやすい特徴として、具が大きい…というよりほとんどが具です。
ピーナッツ煎餅ではなくピーナッツおこし、と言えばわかりやすいでしょうか。
うん、美味しいよね。
明治、大正の頃はコンクリートが単純に貴重だったため、ゴロゴロの川石を粗骨材にしてカサ増しする…ということもあったでしょう。
その後、コンクリートの品質に関する技術やノウハウの蓄積、またコンプライアンスの向上も関係してか、概ね時代が下るにしたがってつなぎ(コンクリート)の割合が高くなり、また粗骨材も砕石に変わっていくという傾向があるように感じます。
では次行きましょう。
遺構群②
次は川下にある遺構群②について。
橋脚が5つだか6つだか。
一直線に並んで倒れています。
取り敢えずかたまりっぽいものを数えていますが、橋脚なのか基礎なのか微妙なのがありますので、少し曖昧にしておきます。
こちらにも欠片が散らばっているので見てみましょう。
コンクリートの品質が少しだけ良くなっていますね。
しかしなんだろう、とんでもなくデカい川石がゴロゴロくっついているのは。
岩盤の有無にかかわらず川原に直接基礎を打ったなんてことは…、いやまさかなハッハッハ。
江府町史
ここからは座学です。
今嫌そうな顔をした人が何人かいますね。
廊下に立ってなさい。
テキストはいつもお世話になっている江府町史(1975)。
そしてはじめまして新修江府町史(2008)。
断片的に久連橋についての記述がありますので、それぞれ引用します。
町内の橋ほとんど流失、浸水家屋三六戸俣野で死者一名伯備線も不通。
橋も次第に永久橋に
日野川にかかる橋として明治からあったものは、下安井橋だけである。
下安井橋は日野往来の改修された明治17年にかけられたもので、大八車の通れる程度であったが、19年の大洪水で流失し、その後は仮橋であった。
それが昭和11年、道路の整備に伴って自動車の通行可能な木橋に替えられた。
一方、久連と洲河崎は、長らく渡し舟があったが、渡し舟に代わってここにも橋がかけられるようになった。
まず、久連橋として、木橋のかかったのは、昭和5年4月のことである。
ところが、9年9月の室戸台風で流失した。
翌10年、復旧のための工事費5,781円(うち、起債3,052円、国庫補助4,406円、県補助1,572円、江尾村成議書)をもって完成をみたのは、11年8月であった。
またこれも20年9月の枕崎台風で再び流失したのであった。
久連橋の架橋
一方、橋はどうであったかというと、前に述べたように、洲河崎橋も久連橋も20年9月の枕崎台風でともに流失した。
洲河崎橋は翌21年、再び架橋したが、久連橋は遅れて25年7月、橋脚5本の内3本をコンクリート化し、上部工は木造として第3回目のしゅん工をみるに至った。
昭和25年(1950年)に架けられた日野川の久連橋は、昭和32年7月に一部が流失し、当初は古材を利用した仮橋でしのいだが、昭和44年国に陳情の結果、永久橋架設が認められ、架橋位置は石破知事の視察により、小江尾川上流15㍍が選ばれた。
工事は昭和45年1月に始まり、橋長は94㍍、幅員4㍍の永久橋が昭和46年3月24日には完工し、4月には知事を迎えて完成式が行われた。
総工費は4,900万円を要したが、国庫補助は3,000万円に近い高額であった。
謎解き
それでは謎解きをはじめよう。
ぽんきちくん、関係者を全員ここに集めてくれたま…
(゚Д゚;≡;゚Д゚) …あれ?
誰もおらんな、おーい!
初代久連橋
二代目久連橋
橋脚5本の内3本がコンクリート
上部工は木造
三代目久連橋
四代目久連橋
江府町史に写真の掲載されているこちらは、永久橋(橋昭和46年)の直前までかかっていたというニュアンスのコメントです。
という事でこちらは三代目。
三代目といえば、橋脚5本のうち3本がコンクリート製であり、上部工は木造、という特徴があったと先ほど引用ました。
写真では、9本の橋脚のうち5本がコンクリート製であるように見えますので、町史の記載が間違っているか、復旧工事の完成した昭和25年7月以降、写真撮影までの間で追加工事が行われたかのどちらかであるという事になります。
せっかく写真が残っていますので、同じアングルで眺めてみると一目瞭然。
川下の遺構群②は昭和25年7月に完成した三代目久連橋である
これが、今回明らかにするひとつめの結論です。
あとは消去法。
昭和5年の木橋ではなく、昭和11年の復旧橋が残っていると考えた方が自然ですので、
川上にある遺構群①は昭和11年に完成した二代目久連橋だと考えられる
これがもうひとつの結論です。
以上、謎解きを終わります。
この世界は謎に満ちています。
宇宙の果てから死後の世界に至るまで、それこそわからない事だらけの人生に於いて、自信をもって言える事が少なくともひとつだけ増えました。
現行久連橋の下流にある橋脚遺構は三代目のものである、と。
はースッキリした。
それでは最後に、竣工記念碑に刻まれた、昭和46年当時、鳥取県知事であった石破二朗氏による揮毫をご覧いただきながら、お別れしたいと思います。
なんで石破知事の揮毫なのかというと、現行久連橋の架橋位置をズバッと決めて、あといろいろと骨を折ってくださったからのようですね。
ああ、そうだそうだ。
廊下に立っていた人は席についてよし。