みどころ | : | 絶景 |
: | 巨岩 | |
: | 大山最古の近代砂防 | |
: | 賽の河原 | |
完成 | : | 大正6年(1917) |
難易度 | : | ★★★☆☆ |
出典 | : | 現地案内板、日野川河川事務所のあゆみ(2006) |
金門狭堰堤は、大山における最古の近代的な砂防施設として、大正6年(1917)に造られました。
しかしその出自は謎に包まれており、いったい誰が造ったのかなど詳細は判然としません。
そして、当然の事ながら直轄事業である大山砂防プロジェクトとは別物です。
何しろ国交省どころか建設省すら存在しない時代の土木構造物ですので…
下流方面
兎にも角にも現地の様子をどうぞ。
まずは下流方面から。
ごっつい望遠なんて持ってねぇもん。
巨岩、奇岩だって見どころなんだからまぁ見てよ。
こちらは上ワタリから佐陀川を少し遡上するかんじで簡単に到達することが出来ます。
前庭工へは大きな段差がありますし、また家サイズの岩が崩落していたりなど、一目で危ないとわかりますのでまぁ程々に。
ちなみにこの上ワタリ、一般的には大山登山スタート地点の渡り廊下程度に思われているんじゃないでしょうか。
⇧思っていた
しかし、あくまで床固工ですから。
上流方面
次、上流方面。
大神山神社奥宮参道の途中で金門へ向かう脇道があります。
立札が立っていますので従いましょう。
途中からだんだん薮が深くなってきますが、ある理由(後述)により比較的踏み固められた道がありますので、たぶん迷う事は無いでしょう。
沢に出てからは、天端はもう目と鼻の先。
ある理由(しつこい)から、足の運びには細心の注意を要しますし、どちらにしても堤体に肉薄してからは一歩でも間違えると即死の高さです。
本当に気を付けて歩きましょう。
それでは写真を3点。
天端の様子です。
ここで、現地案内板と日野川河川事務所のあゆみを読んでみましょう。
大智明大権現の殿堂を造営するに際し、大磐石が道に屹立して通行の妨げとなったので、僧徒等はこれを取除こうとしたが、難工事のため途方に暮れて居るとき、二羽の鳥が飛んで来て手伝い、又、この工事中(孝元天皇五十二年)金剛鳥が天から飛んで来て、次のような偈を説いたので程なく竣工したと云う。
應化身垂跡、釋迦両足尊。
大山における砂防事業の歴史は古く、大山寺が開かれた頃、金蓮上人が金門を切り開いて大山寺集落を守ったのが最初と言われています。
江戸時代には、鳥取藩の山奉行により水源山地の取り締まりや、土砂流出を防ぐための植栽が行われました。
大正6年(1917)には、金門狭堰堤が最初の近代的な砂防堰堤として造られ、昭和7年(1932)からは、日野川水系の砂防事業は鳥取県による農村匡救事業として施工されてきました。
しかし大山源頭部の崩壊は止まず、年々大量の土砂を下流に押し流すとともに、第二次世界大戦中の森林伐採による荒廃、連続して襲来した台風による災害などによって、山腹の新規崩壊や土砂流出の増大をもたらしてきました。
さらに、大山山麓の急速な開発により、新たな土砂流出も想定されることとなってきたため、従来の砂防区域を中上流部まで拡大し、日野川の改修計画と併せて一貫した砂防計画を策定し、昭和49年度より直轄砂防事業として実施することとなりました。
直轄区域は…(後略)
謎の構造物
一般的に金門狭堰堤と呼ばれる堤体については以上です。
しかし、じつはその更に上流200㍍ほどの場所に怪しい床固工(らしきもの)があるのです。
こういった土木構造物ならば、大山の沢を歩いていると極めて頻繁に目にしますので、一見気にせず通り過ぎるところですが…
切石の谷積み、石の摩耗の程度などが先ほど足もとにあった金門狭堰堤と瓜二つなんですな。
もし同じ時期、同じような場所に二つの堰堤を建設するのであれば、考えられる可能性は二つ。
まずひとつ目は上流側が本ダム、下流側が副ダムである可能性。
大山屈指の撮影スポットである名勝の堰堤が副ダムであった…、という解釈は衝撃的かつ魅力的ではあるのですが、距離が200㍍もありますのでダムの規模から考えて却下します。
もう一つは、ダム満砂による2号ダムの建設です。
これですな。
で、どちらが先なのかというと、ずばり金門狭のほうではないでしょうか。
こんなもん土木力学の知識なぞ無くとも、堅固かつ安価であろうことは明らかですので、私なら真っ先にこちらに建設する。
また、これが床固工ではなく堰堤だと私が考える理由はこうです。
基礎って今立っている場所のずっと下の方だよな?
ということで、賭けてもよろしい。
上流側の構造物は、
ダム満砂を理由として建設された金門狭2号堰堤である
…と。
九分九厘これで間違いないでしょう。
賽の河原
最後になりました。
金門狭堰堤及び2号堰堤の間200㍍にわたって所狭しと積み石が立っています。
賽の河原です。
まず引用から行きましょう。
冥途の三途の河原で、小児の霊が石を拾って、父母供養のため塔をつくろうとすると大鬼が来て崩す。
小児の霊は泣きながら、また塔をつくるが、また崩される。
これを繰り返すうちに地蔵菩薩が現れて救う、と言われています。
河原には近くはもちろん遠方からも子供を亡くした親が、人知れずここに来て、わが子をしのびながら、一つ一つ河原の石を積み重ねてつくった石の塔が多くあり、また両岸には地蔵菩薩が安置されています。
大山寺と言えば地蔵信仰のメッカ(?)ですので、地蔵尊によって救済されるべき小児の為の霊場ができた事はとても自然な流れのように思えます。
しかし…
しかし、賽の河原が出来たのは本当に大山寺の開基以降だったのでしょうか?
少し話は逸れますが、賽の河原というのは日本中いたる所にあります。
近いところでは広島の帝釈峡であったり、島根の加賀であったり。
いずれも女性器を連想させる天然の地形を伴っており、ここの場合ですとズバリ金門がそれにあたります。
我々が産まれる前に居た場所があの世であるならば、死んだ後に行く場所も胎内のような場所なのではないか
そういった感じのプリミティブな死生観は仏教とは関係なく、もともと発生していたんではないかと私は思います。
近しい人の死に直面した心の受け皿としてサイノタワ(賽ノ峠)という場所が、それこそもうずっと昔からあり、そして仏教と混淆して賽の河原になった場所もあれば、塞ノ神という姿になって常世と幽世を隔てたりするなど、いま我々がその残り火を見ることのできる古い信仰の形なんじゃないでしょうか。
おしまい。