米子市日野川以西
米子市宗像には2ヶ所、計2基のサイノカミさんがあります。
ひとつ目は宗像公民館の裏、宗像土手と呼ばれる土木構造物の遺構に。
急斜面で、うっすらと道がついている程度ですので足もとに注意しましょう。
もうひとつは加茂川を挟んだ小径の道端、五輪さんや墓石などの石造物群に混じって立っています。
宗像土手の双体道祖神
宗像公民館
双体道祖神
石に刻まれた祈り2 No.13
日野川河川事務所のあゆみ
依り代について.
並んでいる3基の石造物は向かって
左:双体道祖神
中:単体地蔵
右:三体地蔵
左右の2基は殆どのディテールが失われており、何体の像が彫ってあったのかすら判別できない程です。
左端、サイノカミの依り代は三角チャコ的形状の母石に半丸彫りの双体神立像、それ以上は全くわかりません。
男神が笏、女神が宝珠を所持しているという見立てもありますが…、矛に見えなくもない。
宗像土手について.
で、これらの石造物がある場所は、只の公民館裏山ではなくれっきとした土木工事の跡、遺構です。
宗像土手と呼ばれています。
出典から下記引用させてもらいますが、読んでみるとなんかこう…ここにサイノカミが置いてある理由が物凄~くわかるような気がします。
堤防は、現国道181号線と交差し、加茂川をも塞いで築かれていました。
加茂川には樋門が設けられ、兼久堤防が決壊すると樋門は閉じられ、加茂川の流れとともに堰き止められるようになっていました。
宗像土手は、修繕を重ねながら約200年の間米子の町を守ってきましたが、弘化元年(1844)の洪水で兼久堤防が決壊した際、1週間にわたって濁流から米子を守り、副堤としての役割を果たしたものの遂に破堤し、その後復旧されることはありませんでした。
たぶんこれって足の神でも出会い系でもなくて、あちらとこちらを分ける神、つまり塞ノ神なんじゃないかなーなんて思ったりします。
立地的に。
ま、あくまで個人の感想ですけど。
宗形神社近く 道端の双体道祖神
宗形神社が目印ではありますが、けっこう離れています。
神社に向かって右、加茂川沿いを100m程進んだ道の脇にある石造物群。
その中にある双体道祖神がサイノカミです。
依り代について.
前面を整えた自然石に半円形の彫込み、中には双体神立像が浮彫りされています。
所持品はありませんが、
肩組み、手握り、頬よせと、ストイックな図案が一般的である鳥取県西部の双体道祖神の中では情熱的な…
ねぇねぇ!
なんか韓流ドラマの主人公みたいじゃないですか?
(0゜・∀・)ツヤツヤ✨
政変で国を追われたお役人様が日本の女性と出会って…、それで厳寒の山陰に流れてきたんですよきっと。
んなわけねーだろ。
お船塚の言い伝え
因みにサイノカミとは関係ありませんがこちらの宗形神社、ノーヒントでもその名前からふわっと九州のあたりが脳裏に浮かぶ方が多いのではないでしょうか。
ところがさらに踏み込んで、付近にあったとされるお船塚の言い伝えも考慮したうえで、隼人族が大挙して海を渡ってきた名残りではないか?
という考察を、米子市秘書広報課様が行っておられます。
当然真偽を確かめる術とてある訳ではなく、推測の域というニュアンスで語っておられますが、とても面白くてワクワクするようなお話ですのでご紹介させていただきました。